昭和四十七年五月二十二日 朝の御理解

X御理解第四十八節 

わが子の病気でも、かわいいかわいいと思うてうろたえるといけぬぞ。言うことを聞かぬ時に、ままよと思うてほっておくような気になって、信心してやれ。おかげが受けらる。

 親が子を思うとゆうのは、これはもう格別です。その格別の親心を、それを、ほっておくような心と言うのですから、大変やはり難しい事ですよね。けれども、これは信心のおかげを受ける、お徳を受ける一つの要締と申しましょうかね、ここのところをいつも修行させて頂かねばなりません。これは必ずしも、子供が病気といった事だけではありません、子供達の親の思いというものは、子供憎しという心はさらさらあるはずはありません憎しとゆうのも、可愛さあっての憎いのであってね、もうこれは親の子に対する思いとゆうものは、絶対のものですよね、もうよかれがしと思うて言いもすりやたたきもするのです。
 そん時は、こんちきしょうというて、たたいたりする事があるかもしれませんけれどね、いう事きかん時は押し入れの中に入れたりする事があるかもしれませんけれどね、それは可愛いからでしょうが、これはゆくゆく人のお邪魔になるような事であってはならないと、昨日、上野先生が御取次させて頂いた中に、まあだ幼稚園に行きよる、その子供達がですね、グループをくんで、泥棒をすると、幼稚園の子ですよ、それがね時々変わったものを持って、どこからもろうた、ここからもろうたと、もうたった四っ五っ位でも、どうしてこういう智恵がでるじゃろうかというような事だそうです。丁度このことをお願いにきた時も、やはり上野先生が奉仕の時間でしたから、御取次させて頂いた。
 もう親として寒心に耐えない、もう本当にゾーッとします、このまま育つなら、どういう事になるじゃろう、しかもですね何人も手を組んでやるそうです。そして、それを、まあとるもんは幼稚園ですから、お菓子とかオモチヤでしょうけれどもね、それで母親がその事を心配して、お願いをさせて頂いて、それから、ここでいわれる黙って治めるとゆう事の、御理解を頂いたり、親先生の御取次を頂いて、昨日はお礼に出て来ている。
 それがまあ不思議な、いろんな働きを頂いてる訳でしょうけれども、おかげでいろんなものを持って帰ってこんようになった、だからそれを言うて聞かせたり、怒ったりとゆうのでなくて、又、いうて聞かせてもわからんくらいだというのですよね、まだ子供ですから、ですけれども本当にこちらでは折かんの一つもしてから、そげなくせがあるならば、そのくせを治してやらねばと思うのが親心、けれども信心はそれを例えばそんなら、いわゆる、今日のところでいうならば、ままよとゆう心になって神にすがってやると、もうここのところは普通だったら、言うて聞かせると、又は怖い思いをさせてからでも、というところなんでしょうね。
 けれどもいわずに、それがおかげを受けられるとするならです、私はそこにハッキリ神様の、いわばお働きというものを、充分に体験する事が出来ると思うのです。けれどもそのいわんまでが修行なんだ、もう本当に手が出ろうごたる、口が出ろうごたる、それを生神金光大神さま、とお唱えさせて頂いて、大体、広島の方で信心されておった方が、久留米の方へみえておられましてね、折角あちらでお参りするなら合楽という教会があるからとゆうので、親先生から言われて参りましたが、この前のお月次祭に初めてお参りさして頂いて、もうこちらの先生の言われる事はね、教祖様がおっしやっておられるという感じでしたと。
 もう本当に神様のお話しとまで頂いたと、やはり思わなければ黙って治めるとゆう事は出来ません。先生がこげん教えよんなさるとゆうだけでは先生もやっぱ人間ですから、口でだけならどんな教えでもされる、どんな事でも言える、けれどもこの先生が言われることなら間違いがなかろうと信ずるところから、言いたいけれども、いわんですむおかげが頂かれる、ですから、これは取次者たる者、いよいよ信じられなければならない、例えば、今日のようなところは頂けません、そんならこれが日ごろ、私どん先生にや参るらんのぢゃけん、神様に参りよるとじやけん、その先生と仲が悪い、いうならば先生のいうことがひとつひとつ抵抗を感ずる。
 うちの先生のいうこと、聞こうと思はんばって私どん、先生に参りよるとぢやなか、神様に参りよるとじやから、とこういうような言い方をする人達がありますけどね、それは先日からの御理解じやないけれども、成程、天地金乃神に直接お願いしよるようなもんじゃから、これではやはりおかげは、いわゆる、無常の風に時を嫌わすという程しのおかげにはなってこない、やはりここでいうならば、無常の風は時を嫌わんというけれども、それに嫌わすほどしのおかげを受ける信心が、今日のここのところだと思うですね。
 成程、言わんで済む神様がおかげを下さる、これは、まあ、今も申しますように、まず自分の子供に対してが一番素晴らしいですね、こういう体験を受けていくということは、親として言うとかにゃいかん、もう大体これが本当言うたら間違いです。親がそんなら神様の目からご覧になったら、どれだけのことができとるか、そこで、御取次を頂いて心配なこと、例えば、それは子供だけのことじゃありませんよ、様々な難儀な問題もそうです。親先生まかせになるというてもです親先生を信じる力が段々できて来るから任せるのです。
 それは任せてんよか任せんでんよかということなら、任せもできましょうけれども、これを任せよったなら、もうひょっとすると、例えば命にかかわるといった事があるかもしれませんよ、これば任せよって先生のいう事がもし間違うと、これはうちの財産はなくなってしまうというような場合もありますよ、ただ簡単なことなら、親先生が右とおっしやったから右、左とおっしやったから左ということもできましょうけれども、そういうような例えば、大事、例えていうと、そこに可愛いい可愛いいというて、うろたえなければおられない程しの時なのです。
 これは可愛い可愛いというのは子供の例えをとってあるから、可愛い可愛いとうろたえにゃおられん、その心を任せるのがお任せする、それにはです、やはり、その先生が信じられなければ任せられんですね、ここではよい一つの例えがしてありますね、いうことを聞かぬ時、ままよと思うて放っておくような気になってと、おっしやっておられる、これは例えであります。自分の息子でも、もういうこと聞かんならほうからけておけと言う時があるでしょうが、だからその放からしとけと言うのではおかげにならんのです、けども、そういう気持ちなんです。
 「お父さんどうしますか、あればっかりはもうどんこんできん」「放からけとけ、もう今度から聞いてやんな」とまあ夫婦で言い合う事がありますよ、その放からかしとけじゃおかげにならん。そういう時に放からかしとく心持ちなんだ、その心持ちが神様に向けられなければならん、次にそういう気になって信心してやれとおっしやるのですから、黙って治めるということもそうなんですよね、黙ってさえおりや、自分がぐうぐう修行しとりさえすりやいいというのじゃないですよ、もう黙っちやおられないような時にです、金光様を唱えさせて頂きながら、自分の心を押さえるだけではない、その心で願う。
 もうこれが一番あか抜けしたおかげという事になりましょう、けれどもね、一番有難いことは、そういう心になって神様に向かう心が徳を受ける心なんです。又の御教えに十二分の徳を受けようと思えばままよという心になれよ、ままよとは死んでもままよのことぞ、というほどしのこと、だから十分の徳を受けようと思えば、ここのところが一番大事なんです、おかげもそれは一番あかぬけしたおかげが受けられるです、この心もちになったら、だから信心はそういうところがきつか、言いたいところでもジーッといわんで辛抱さしてもらう、それはもう、本当に不思議な不思議な働きいなってくるですよ。
 この辺のところをいっちよ本気で稽古させてもろうてね、スキッとしてくると、これはもうあらゆることにそうですけども、とりわけ 我が子がとこのようにおっしやっておるから、自分の子供程、親が切に思いをかけることは、もう他にはありますまい、親が子を思う心、その心こそ親切だとおっしやる位ですから、親切とは親が子を思う切なる心だとおっしやる、だから、そういう切なる心をです、そんなら言葉に表したり、形に表したりしたんでは、おかげにならんのです。まあ普通の教育からいくと私のいうことは、そんな馬鹿かなということでしょう、神様を知らない信じない人に「そんなことが、それを教育するとが親の教育じゃろもん」と言われるでしょう。
 けれどもです、親の教育じゃ、たいしたものはありませんです。もう本当に神様のお育てを頂かなければ出来ませんです。それにはガチャガチャいいながら、神様に願ったんじゃ、もうおかげにならんです。いわゆる本当の意味においてのおかげには。ままよという心、子供がどうぞ勉強しますようにと、そしてもう、机についてから勉強しなさい勉強しなさいといいながら、神様にお願いしたっちやたいしたことはないです。もうこの子はいよいよ勉強ができん、勉強をせんという時にはね、大抵いうてみてせんなら、もうひとつ、そのことは放っておく心にあらないかんです。そうしてその心で神様に願ってやる。
 もうそこでは勉強ができようが、出来まいが、もう願いの焦点も変わってきますね、段々、もう勉強しますようにとかより、もう本人が幸せになりさえすればいいという心になってくるです。例えば勉強が出来たために災難に遭うといったことすらがあるとですからね、いわゆる気が利いたつばかりができてから、親が大変難儀をしているとゆう人はいくらもありますよ、世間からは入れられない、ちいつたたらんとじゃなかろうかと、いわれるような子をもっと親は難儀ですけど、それでも子供が幸せになればいいのだ、それが結構、親を見て行くという例はありますよ、もう本当です。ですから何の為に勉強せろせろというか、それは親の心としてはね少しでもね。
 そのようにね、親の見栄でいう人がありますよ、勉強して良い学校に入れにやというのは親の見栄、もうこれが一番つまらんです。だからはじめの間は、なるほど勉強ができますようにという願いでよいですけれども、それが段々本当のことが分かってくると、勉強のことでなく、もう本人がどうぞ、本人なりの幸せを頂くことができることを願いとしてから、いわゆる、放っておけれる心なんですよね、ままよという心は、これは子供だけじゃありませんよ、勉強だけじゃありませんよ、もう全てのことにこれは通じることなんです。言うて聞かせてしてみせて、ほめてやらねば誰もせぬぞえと、いうようなことを言いますけどもね、そんくらいのこつで出来たとは大したおとはありませんです。
 ほめることもいらん、してみせる事もいらん、言うて聞かせることは尚更いらん、ただ放っておく気になって、もうこれは最高の信心です。なるほど、そういう気になれば徳をうけるのです。ままよという心ですから、 というてそんならここでは、もう言うこと聞かんからあげなやつはかまわん、ちうようなことでわなくてです、そういうかまわんんという心持ちになって神に願ってやれ、神にすがってやれとおっしやっておられる、ここのところです、それはここにハッキリと断言しておっしやっておられる、おかげが受けられると、おっしやっておられる、そういう心になれば、だけではない、今日はこういう信心にこそおかげが受けられるといっておるどうしても、その辺のところをままよという気になりきらずに少しばかり自分の意志を入れる、これはもう本当に実に残念です。
 今ごろから秋永先生が車を買わせて頂くと、それでどれを買わせて頂いたらよかろうかというけん、神様はこれがよいというて〇をつけて下さったら、それがその会社で一番よか車げな、値段もやっぱ何十万と高い訳なんです。それで秋永先生は、そこえ人間心が出て来てからどげん考えたっちやよすぎる訳です、それで何遍でんお伺いする、しまいには「先生あれは金光様がお召しになっておる車ですから」というごたる口実をいう訳です、だから私は初めからね、あんたが乗るとじゃない、そんなら、教会の御用でもさしてもらう、親先生がどこかおい出る時にでも使わせて頂く、毎日のお参りだけにしか使わん、商売にはまあいっちよの車ゐ使うというふうにしたら、どうのというけれども。
 やはりそこんところを、私はそれでね、例えばお金を、だからよすぎる程しのものを頂いたと思うから、そんならこれに匹敵する信心をせにゃというはずみも又出来て来るですよね信心ちや、文男さんじゃないですけれども、よい車を一段一段買うていきよります、買わして頂くと、例えば何十キロだけは神様へお供えするという例えば一ヵ月だけ、この車で朝参りをさせて頂いて、足りないところは、これでカバーさせて頂くという信心をする、それは自分には過ぎたよか車と思うから、それができるんですよ。自分がわかり神様が下さるおかげがわかるからです。
 どんなに思ったっちや、自分にはこれは勿体ない、だから勿体ないその車を使わせて頂くのだから、それが頂けるだけの内容の、こういう時にままよになりますとね、いわゆる、よい車に乗れるというだけのおかげじゃないです、なるほど神様が何十万じゃつて思はぬお繰り合わせを下さり、払えるおかげが頂けれるです。
 だから、そういうおかげだけじやないです、もうそういう時にです、やはりお徳を受けるのです、問題じやないです、だから安かろうとか高かろうとか、よすぎらん、よすぎると言うなら、それを本当に、それだけの信心修行させてもろうたらいいと、心にかかるならば、しかもこれは金光様がお召しになる車んと思うたら、いよいよ勿体ない、身のちぢむ思いがする、ハンドルを握る時にいよいよ金光様、勿体ない事ですというて乗られるそれだけでも有難い。
 結局とうとう、そんならあんたどんが、これとこれで、してきなさい、そんなら買わしてもらおうというてから、次ぎの車を又えらばして頂いたんですけどね、そんなら初めからお伺いせん方がいいでしようが、だからそういう時です、そういう時に、大体親先生はどげん思うちやるじやろうか、うちへんの京染屋ぐらいで、こんな車にのられるものかという訳なんでしょう。自分でも初めいよったです、だからもう教会に出る時だけ使ってお参り専用にせにやできん、まあ御用の時だけ使わしてもらおうと、そげなふうで、あそこの辺を行ったり来たりしよったけれど、結局はやっぱよすぎるということになって。
 いわゆる、これは金光様の乗りなさる車と聞いたから、それだけでもうじゅうっとしてしもうてから、他の車にするという、だから皆さん人の話なら、こげんやってから、ニコニコ笑うて聞きよるばってん、自分の時には大変ですよやはり、秋永先生ともあろう人が残念なこつと思うて聞きょろうけれども、自分の事となるとどうしてですね。
 昨日、原さんの所一家で今度、改築があるんです、表の方をぴしゃっとすると何十万と高くなる訳です、神様のおかげを頂かなければできんとじゃから、思いきつてさせて頂けと私が、自分ができりや、自分の金でするとじやから、それはちよいと五十万もころつと高うなるごたるけれどもね、第一全然、今ないとじゃけんあんた方には、どうせなかところからおかげ頂かにやならんとならばです、思いきつておかげ頂きなさいと、私は、ところが自分が払おうと思いよるもんじやけんで、やつぱちよっときつか訳ですよね、そげんまでせんでんという気持ちがまだうろうろしよんなさるという感じです。
 こげんところをピシヤッとですね、親先生が言うて頂くからと、まあいう為には、そんなら親先生のお言葉を神様がいわれるのと同じことというような頂き方をさせてもらわにやできんとこです。だから、そういう時には任せられる、そんなら病気だけの事ではないでしよう、子供だけの事ではないでしよう、自動車の事だって、改造の事だって、もう一事が万事に、そこにおかげの頂ける、お徳の頂けれるチヤンスがあるのですけれども、そこを自分の考えで、お徳を受けられない、ただおかげの方え安い方へしてしまう、という事になってしまう訳です。
 私は今日、四十八節というところを頂いてね、もうそういう例えば本当のおかげの頂けれる事は、いつもあっておるのだと、しじゅう、そこんところを例えば、こちらが遠慮してから、おかげの遠慮をして例えば四十八を四十七にしてみなさい、もう七じやひろがりはせんとですから、ただそのことのおかげだけは頂くでしよう、そして安うしてよかゅやと言うでしょう、そんなら自動車を、、、、これは自分の徳に丁度釣り合うとるという考え方するから、、、勿体ないができなくなってくる。
 少しはいつでん勿体ない位のおかげ頂かにやいかん、お互いが、そんためにはです、神様の下さろうとするおかげを本当に頂こうという腹にならにや出きん、そこんところがいわゆるままよである。もう払いきらんときには、親先生からいっちよう払おうてもらうという気持ちでね、先生があげんいいなさったつじやからとそれで私はどん腹決めさせて頂かにやならん、これはこれはおかげを頂くひとつの要締と申しましたけれども、これはお徳を受けるチヤンスというのは、そのようにいつもあるのだと、だから、そういうチヤンスを逃がさずに、そこえを頂き抜いていけるだけの、日ごろの信心の稽古ができておらねばならん。
 まあここで第一の信者と自他共に許しておる秋永先生ですらがです、自動車の場合、ほんにおしかのと私は思うけれどもね、もう何遍でんお伺いに出てきたから、もうちよいとそれでは、よすぎるといわんばっかりにいうけんで、そんならあんたどんが自分で決めなさいと、だからこのへんではね、信心のわからない者にはわからない境地をここでは教えておられるのです。しかもそれはおかげを受けられるとおっしやるだけでなくて、いわゆる徳を受けるそういう時にスキッとした徳を受けられる場にお互いがなった時に本当にあん時にひと徳受けたんじやろうかと思われるようなおかげを受けられるチヤンスに恵まれた時です。
 それこそ、いわんですむおかげ、ここは黙って治めにゃと思うけれども黙っておられん程しの時に、そこんところの修行をさせて頂いて、スキッとしたそこになるほど、教えてからでも、いうて聞かせてからでも、折かんしたり、たたいたりしてわからせて、分からせられることじやない程しのですおかげを頂くから、神様は素晴らしいという事になってくる。だからその働きを実感させて頂く日々であるところからです、そんならいよいよの時にです、原さんから秋永先生の例をとりましたけれども、それじや親先生がいうて下さったから本気になって頂くぞというて、信心にはずみをつけていくならば、必ずお徳が受けられる。
 久留米の石橋先生の場合もそうでしたですね何年がかりで、利払いだけしかできなかったのが、神様が八百俵の徳を授けるとおっしやった。だからいよいよ神様が下さるなら本気になって頂こうというて信心の上にはずみをつけなさった、九州中、四神金光様のお徳を説いて回られたということです。それこそ、長い間、利払いだけしかできなかった当時八千円という借金だったそうです。これが一年足らずでおかげを受けられたという事実がある、さできなさった時にはどうですか、もうその八百俵の徳を受けておられる、これが素晴らしい、借金払いができたというおかげじゃないのです。
 今日、私は皆さんに頂いて頂きたいのはです、神様が百円下さろうとするのをもう八十円位でよかと、もうそれは八十円のおかげだけです。けれども神様が下さろうとする百円を頂こうという気になったら、百円のおかげだけじゃない、百円の徳が受けられるのです。  どうぞ